かちがわ通信

春日井市勝川発のまちづくり情報発信中!! 自立分散型、みんなでやらないまちづくりに取り組んでます

祖父吉太郎

昨日の午前中は、祖父吉太郎の27回忌法要を営みました。この吉太郎と言う人、弊店でいえば2代目になりますが、明治30年生、初代が早く亡くなった関係で15歳から家業を継ぎ、7人の兄弟姉妹と5人の子どもを育てた我が家にとっては立志伝中の人です。趣味で「菊づくり」をこよなく愛し、春日井の菊栄会を作り30年に亘って会長を務めていました。台風が来ると「車庫から車を出せ」と言われ、菊の鉢をしまう手伝いをさせられましたが、祖父にとっては車より菊が大切だったようです。また、時期になると市役所や勝川駅を始めあちこちへ大輪の菊を運ばされた思い出があります。明治の気骨でしょうか死ぬまで背骨がキチンと伸び、さらに世話好きの性格か慕って来る人も多かったような気がします。また、愛知県食品衛生協会の発起人にも名前を連ね、春日井支部長も永年務めていた事をみても頼まれると断れない性格だったようです。

私が小さい頃、折に触れ、良く昔話もしてくれましたが、創業当時今の勝川天神社の近くに地蔵が池という徳川家ご禁制の池があり、ここで取れた川魚(鮒、もろこ、はえ、ウナギ等)を煮たり焼いたりして下街道筋を行きかう旅人や馬車曳きを相手に商売をしていたようです。しかし、店だけでは商いが立たず今の篠木町辺りまで売りに歩いていたようですが、ある時、声を出すのが恥ずかしかったのか竹藪の中で、「かばんしょ(ウナギの蒲焼)は要らんかね」と練習をしていたら、付近の百姓の人が「おい坊主、そんな声では売れんぞ」と言って呼び寄せ沢山買ってくれたそうです。さらに、東春日井郡でうなぎを捌く競争があり一等だったとか、また、魚を仕入れに今の柳橋まで自転車で行ったそうですが、帰りに瀬古の辺りで「馬」を売っていて、これを勝川の何人かで買って育てたとも言っていました。今の三菱UFJ銀行の南、再開発ビルの場所です。
また、春日野部屋名古屋場所の宿舎を地蔵寺に決めた時、商店街の有力者(足立病院、丸久、ダルマ屋、若月さん、いずれも先代(先々代)ですが、)等と後援会を作りその一回目の激励会を弊店(旧店)の2階で開催しました。春日野部屋の親方が栃錦の頃で私は中学生でした。「商店街を相撲取りが歩けば活気が出てくる」とも言っていました。
親戚の子どもが来れば、籠の中に無造作に放り込んであった売上金から「ほれ小遣い」と渡していた姿も目に浮かびます。

今にして思えば、何かに書き記しておけばという逸話ばかりです。昔の人は、苦労は人一倍だったんでしょうが、同時に楽しむ事も知っていたような・・・世の中のスピードが違うと言ってしまえばそれまでなんでしょうが、何か憧れのような気持ちがしてきます。