かちがわ通信

春日井市勝川発のまちづくり情報発信中!! 自立分散型、みんなでやらないまちづくりに取り組んでます

春日井経営塾vol.2

Baidu IME_2012-11-21_13-42-50勝川のまちづくりというと、殆どの人が駅周辺の再開発事業が頭に浮かぶと思いますが、昭和62年度に策定した「勝川駅周辺総合整備計画」には、7つの事業(勝川駅前、勝川地区(県施行)、勝川駅南口周辺の3つの土地区画整理と駅北地区の再開発事業、中央線立体交差事業、地下駐車場整備事業、南口周辺住宅市街地整備事業)と関連した6つの事業が示されています。実は、昭和44年都市再開発法が施行されたのを受けて、同年官民挙げて再開発事業の検討に入りますが、折しも直後のオイルショックで検討を断念し、この昭和62年の総合整備計画で、引き続き検討を続けてきた地元の熱意が実を結ぶことになります。

<講座ではここから再開発事業の説明をしましたが、ここでは省略します>


総合整備計画さて、勝川駅周辺総合計画の基本方針は、1.鉄道高架化に伴う南北一体の玄関づくり 2.玄関にふさわしい都市基盤整備と建築誘導 3.ターミナル化による交通拠点の形成 4.都市機能の集積による地域サービス拠点の形成 5.商店街の再編による近代化・活性化の促進 6.住環境の改善による人口定着の促進の6項目です。施行区域は図をご覧下さい。特徴的なことを書けば、区画整理事業では、全国初の立体換地という手法が取られたことと、区画整理と再開発が同時に施行され、そのために街が一変したという部分ですが、この立体換地は従前の土地所有や借地権関係が非常に小さく、平面換地で減歩をすると使い方が難しく、ビルを建設してその床に権利を置き換え減歩率を抑えるという手法です。土地という不動産を償却資産に変換する手法ですので個人的には良い方法ではないと思っていますが、実際その後この手法を採用した場所は福岡と勝川駅南口の勝南プラザです。一見再開発事業と同じように見えますが、基本的に照応の原則(従前の位置関係を原則とする)にとらわれることなく進めることが出来ますので採算が取りやすくなるという利点もあります。しかし、この勝川の場合は再開発事業に先行して事業化された経緯もあり、春日井市としては地権者に対して収益を確保するため管理を第三セクターの勝川開発に委ねることで権利者の同意を取り付けました。事実、平成7年に竣工したルネックは、約10年の間、駅前にポツンと一棟だけの状態が続き、計画にあった7棟の再開発ビルの建設を待つことになります。


ルネックこれは余談になりますが、このルネックの出店説明会で、三河の某コンサルが「ファッションビルです」と言われたので「7階に飲食店があるが、ここへ納品する業者はどのエレベーターを使うんですか」と聞いてみました。図面には南側にシースルーの客用エレベーターしか書いていなかったからです。当然ですが飲食店には肉屋、魚屋、八百屋が納品に来ます。「ファッションビルのエレベーターに材料を台車に載せた業者が一緒になったらどう思うんでしょうね」という意味だったんですが、このコンサルの返答が「仕方がありません」でした(苦笑)そのせいでもないんでしょうが、出店したブティックは次々に撤退し、今はクリニックやオフィスが入居する雑居ビルになっています。

もうひとつの特徴の同時施工ですが、利点として1)土地区画整理側で建物の移転(除去)が進められることから再開発事業としては事業費の削減につながった。2)従前店舗で営業をしていた権利者の仮店舗の確保に関して、土地区画整理事業の施行当初に設置されていた仮設建物を再利用することが出来、権利者のスムーズな移転が可能になった。3)土地の鑑定評価において、土地区画整理側で仮換地における評価が示されていたことから再開発の各筆評価については仮換地格差(比率)の考え方を尊重することで評価格差における理解が得られやすかった点が挙げられます。この同時施行を行ったため、勝川の街が広い範囲で一変することになりますが、反面、従前のコミュニティが失われてしまった点も大きな問題として残ることになります。

平成2年にスタートした再開発準備組合は、出来るところから事業を進めるため結果として3つの再開発組合に分かれます。一番先行していたのは勝川北A2街区のホテル建設です。どのホテルを誘致するのかは別として内容が決まっていた事と、権利者が少なかった事で事業の進捗はスムーズに行われました。ただ、再開発組合で施工したホテルを第三セクターの勝川開発株式会社が一括で借り上げ設備と什器を揃え、それをホテルプラザ勝川という別の第三セクターに運営を委託するという複雑な仕組みの上、さらに大阪のプラザホテルに管理委託しましたが、このプラザホテルが倒産すると議会を中心に大きな問題になります。最終的にはホテルの一部を市が買い取るという荒業で現在に至っています。松新地区の再開発組合は元々の権利者が少なく、また大きな地権者が居られ、この方を中心に比較的スムーズに事業が進みます。最後の勝川地区は権利者数が多く、更に転出希望が多かったため事業としては一番難航します。いずれにしても、どうしても事業が長期化しますので、法定手続きや様々な関係機関との調整が難航したり、全員同意が原則ですので、関係権利者の資産保全を前提とした合意形成には、大きな労力と時間が費やされました。

R0012829因みに勝川地区は(権利者数 72名 土地所有者44名 関係権利者28名・ 転出58名) 松新地区では(権利者数 31名 土地所有者21名 関係権利者10名)・転出 5名)です。事業を進めるについては再開発組合の理事会や会合を数え切れない回数繰り返しましたが、将に、総論賛成各論反対。事業主として権利者として相対する立場の中で生じる葛藤の繰り返しでした。この背景には皆さんの資産評価への思い、考え方、期待度の違いがあったかもしれませんが、補助金の関係で再開発法に則った事業を構築することが前提だったため、大規模建築物を計画せざるを得ない必然性と先程書いた転出希望権利者の資産処分が大きかっため事業資金回収のための努力は大変なものがありました。当初は大型商業施設でスタートしましたが、テナント誘致の目処が立たないまま 時間だけが過ぎ、一度は学校法人で決まりかけたのですが先方の都合で断念、覚書まで交わし都市計画決定まで得っていただけに裁判を起こそうかと相談したくらいです。最終的には住宅デべロッパーで決着しましたが、決まった時は全員がこれで事業が進めると安堵の気持ちで胸を撫で下ろしました。

コピー ~ R0012987その後、立体駐車場を入札の結果名古屋の駐車場会社へ売却(勝川地区)し、平成19年目出度く竣工の日を迎えます。(松新地区は平成18年)
最後に残った松新線(ホテルの前を南北に通過する道路)は、更に4年後、将に東日本大震災の直後に完成。被災地への配慮をしながらホテルプラザで竣工式を挙行する事になり、昭和62年から始まった勝川のまちづくりが全て終了します。