かちがわ通信

春日井市勝川発のまちづくり情報発信中!! 自立分散型、みんなでやらないまちづくりに取り組んでます

春日井経営塾vol.1

先日の春日井経営塾でお話させてもらった内容を何回かに分けて書いておこうと思います。これは自分自身の備忘録も兼ねていますが、宜しければお付き合いください。まず、最初は「地域と歩んだ112年」です。

rekishi_vige弊店の創業は明治33年。西暦で言うと1900年になります。この年は国鉄中央線が名古屋ー多治見間で開業した年で、勝川宿の住吉屋で働く曽祖父”水野徳次郎”が、住吉屋の長谷川良一氏から駅前の土地を分けてもらい始めたようです。屋号の水徳は、この苗字と名前から一文字づつ合わせて付けられました。当時は農作業の間に仕事をしていたようですが、郷土史研究家の村中先生の記述には「御嶽山善光寺に参る白装束の講集団で賑わい、如意や豊場方面からも大勢の客があった」と書かれています。また、春日井市史にも亜炭を運ぶ人夫や馬方が一丁並んだと記されています。いずれにしても、明治13年春日井郡が東西に分けられ、東春日井郡の郡役所が現在の大清寺に置かれてから、明治39年勝川村、味美村、柏井村、小野村、春日井村が町村合併で勝川町になり、大正3年勝川に町役場が置かれるなど、近代の歴史の幕開けが感じられる時代に創業したことになります。
この絵は、柏井町在住の塚本苔石氏の作で、弊店の2代目吉太郎に贈ったものです。時代が時代ですから当時の様子を伝える写真もなく「今となっては貴重な絵だ」と先述の村中先生からもお聞きしました。

さて、創業者の徳次郎は、短命で大正10年に亡くなっています。その跡を継いだのが、当時20歳そこそこの長男、吉太郎(祖父)です。母親と9人の兄弟の面倒を見ながら商いを続けていたようですが、大叔父や大叔母には、大変な苦労があったといつも聞かされていました。当時は鳥居松や篠木にも焼いたうなぎを行商に出かけていたようですが、声を出すのが恥ずかしかったのか、竹やぶの中で「かばんしょ(うなぎの事です)要らんかね」と声を出す練習をしていたら、近くの人が「おい、坊主、そんな声では売れんわ。こっちへ来い」と言って、全部買ってくれた話などを、よく祖父から聞かされました。また、この吉太郎という人は大変な菊好きで、春見公園で毎年開催される菊花大会を運営する「菊栄会」という組織をつくり初代の会長になります。会長職は以後30年に亘り努めましたが、愛知県の食品衛生協会の発起人にも名前を連ねるなど人望も厚く、今でも時折「お前の爺さんに世話になった」と言われる年配の方が店で懐かしそうに昔話をしていかれます。私も大変好きな祖父でした。


BlogPaintさて、その後、昭和3年に写真の店舗になりますが、後ろの2階建て部分が宴会場で、郡役所や役場の人、また、戦後は王子製紙の関係で大変賑わっていたようです。丁度昭和34年伊勢湾台風の年に県道(当時は国道19号)沿いを増築します。また、今の餅彦さんの辺にあった花屋という料亭を市が買収し若草園という市民結婚式場にしましたが、春日井市の人口が急増していく社会背景もあって、連日婚礼披露宴が行われ、この料理を受注していた関係で多忙を極め、昼は婚礼、夜は宴会という体制が取れなくなり、昭和40年代になって宴会からは次第に撤退することになります。もちろん、商店街の角地で駐車場もなかったことから競争力が無くなっていったことも理由のひとつかもしれません。こんな頃は、3代目の幸夫(父)に代が変わっていますが、法人化(合資会社)になったのは昭和27年、丁度60年前です。世の中に」自動車が普及し始めますが、父は戦時中、高野山の航空部隊に所属し、戦地には行っていませんが将校の運転手を勤めていた関係で、車(マツダの三輪車でした)を購入し仕出し業にも手を広げます。当時は婚礼も法要も自宅で行う人が多く、特に婚礼は、朝準備してお客様も自宅に行き、そこで簡単な調理をしながら料理を出すというスタイルでした。そんな頃は、殆どが農家で、庭も広く、一緒に付いて言っては仕事が終わるまで遊びながら待っていた記憶があります。仕事が一段落すると、炊事場に「仕出家さん用」と書かれたお膳が用意されていて食事をいただいた記憶もあります。今思うと本当に長閑な風景だったと思います。


昭和40年代Ⅱ この写真は昭和40年代頃だと思われます。交差点には信号機が設置されていますが、今ほどの交通量はありませんでした。子供心にこの道を戦車が通過するのが大変楽しみで職人さん達が「戦車が来たぞ!」と教えてくれると慌てて道路に出て見た記憶があります。後ろ(隣)の建物は大垣共立銀行の勝川支店です。これは大正2年に開業しましたが、弊店の口座番号は4桁で、この開店日に開設した口座番号だと、後の支店長から教えてもらいました。また、電話番号の「2043」も勝川に電話が敷設されて43番目に申し込まれた番号だそうです。この番号より古い番号は、私の知る限り、現在では、十字の漢方さんと、土地を分けていただいた住吉屋(現在はH家)の本宅の番号が残っているのみです。
弊店の歴史を語る上で、この住吉屋は大変大きな存在だったと言わざるを得ません。土地を分けてもらい商売を始めた事は書きましたが、それ以後も「商売には電話が要るだろう」と付けてもらったり、本当にお世話になったと事ある毎に聞かされてきました。今では代も替わりましたが、我が家の法要を営む時は、必ず上席にこのH家から来てもらっています。多分この先何年続くかわかりませんが、これだけはきちんと守れと言い伝えていこうと思っています。

その後、市営結婚式場も、市役所前の産業会館(現在の文化フォーラム)から東野の勤労福祉会館に場所を変えますが、父には「市役所の言うことは聞け」と教わり平成2年にグリーンパレス春日井と名前が変わりレストランを受注するときも大反対した私を諭すように、市との共存の道を歩んでいきます。また、昭和53年に春日井西武が開店した時も「時代に乗り遅れる」と出店を決意しますが、今考えれば高度成長に後押しされ、新しい仕事に意欲的に取り組んだのも父の特徴だったかもしれません。しかし、欲とは本当に無縁の性格で、商店街を始め地域の人たちに人一倍気を遣い「仏の幸夫さん」と言われたくらい温厚な人でしたが、元々体が弱く、晩年は体調を壊すことが多かったような気がします。


本店外観このように地域の変遷に翻弄されつつ細々ではありますが、火を消すことなく営業を続けて行きますが、やはり昭和62年から始まった勝川のまちづくりは、特に父と私にとっては、将に人生を賭けた一大事業となりました。詳細は次の項で書きますが「市の言うことを聞け」という父でしたから、平成6年に市の助役から「なかなか事業が進まないが、お前の所が動けば皆もその気になるかもしれないので」と言われ、明治33年から続けてきた場所から勝川6丁目の仮店舗に立ち退くことになります。以来8年間仮店舗で営業を続けた後、平成14年現在の八光町に新店舗をつくり今日の姿になっています。

まだまだ、ここで書けない事も沢山ありますが112年という長い歴史を刻んでこれたのも、地域の皆さんに支えられた事が一番だったと思っています。次項は、勝川駅周辺のまちづくり、特に再開発と区画整理について話を進めていきます。