かちがわ通信

春日井市勝川発のまちづくり情報発信中!! 自立分散型、みんなでやらないまちづくりに取り組んでます

シャッター商店街に思う事

かつては需要があったから「店」が出来「街」になった。今は需要が無くなり「店」も消え「街」が寂れていく。農業における耕作放棄地と同じだが手厚い保護政策は「街」には無い。空き店舗対策としての補助金は地主の利権を守るだけで根本的な解決にはなっていない。補助金を得て出店した半分以上が数年以内に撤退している。枯れた花に水を撒くようなもの。シャッターの裏側に住む商人は得てして古くから地域の顔役である場合が多いため、将に裏側に隠れた豊かさを担保しているだけ。補助金を上手く取ってくる理事長が「やり手」とされた。

しかし、しかしである。シャッター商店街には歴史がある。急増する人口を支えるため戦後多くの商店が開業したが、昭和末期の大型店の台頭を期に売上が減少し事業承継が困難になると後継者は都会で働き収入を得るようになった。さらに、一時的に繁盛を経験した商店主は、自分のビジネスモデルを子供に押し付ける。商店主は、紛れもなく朝も夜もなく働き続けてきたが、急激に変化する顧客の嗜好について行けない。世代間の価値観は相容れない。

ましてや寂れた商店の後継者では嫁の来てもない。減少した売上では家族4人が暮らせないからだ。運良く嫁を貰っても、嫁は家業を手伝わずパートに出ざるを得ないケースも見られる。高齢化した店主は年金すら資金繰りにあて何とか維持するも力尽きる。借金さえなければ資金繰りに追われる日々とは決別できる。力尽きて初めて気がつくのは、細々ではあるが「人間らしい生活」だ。

こういう背景を考えれば、将に犯人探しの論調には些か抵抗を感じる。決してシャッターの裏側の住民が悪いわけでもなかろう。むしろこういった状況にならざるを得なかった「地域の無策」さや「無関心」さに光を当てるべきではなかろうか。地域を守るためには「覚悟」がいる。誰が覚悟をするかは別として「覚悟」を決める意味は「金」を出すことだ。「金」がなければ「汗」をかく「汗」がかけなければ「知恵」を出す事が肝心。いや全てが必要なのかもしれない。行政、商業者、もっと言えば住民も然りである。

今や街に投資するリソースは限られているが、使用と所有の分離という方法もある。街の遊休資産を利活用するリノベーション事例も出てきた。まちづくりは楽しい。何故なら我々がこの時代に生きた証しだからだ。孫子の代になって、これがオヤジや爺ちゃん達が作った街だと褒められたい。